このブログに昭和の思い出としてなぜ私が食品問屋に30年間もお世話になったのかフィードバックスタイルで起因から過去へ又過去から現在へ何も書くことが思いつかない日に埋め込みをさせていただきたいと思います。
取りあえずなぜ業務用の問屋だったのか?というあたりから昭和の思い出について語らせていただきます。
私の家は商売をして母がお店に出ていました、その店は札幌の月寒というところにある(いこいストアー)名前の市場でした、お店が終わり親が帰宅してそれから晩御飯のしたくをすると食事の始まるのが8時~9時ここまで何も食べずに暮らせるほど当時高校生の私は耐えれる訳もなく、かといって一人で食べてしまうような、愛情の薄い家族に育ったわけもなく、そうだ親が帰ってきたときにご飯があれば即皆が食べることが出来るんだとわかり、前日に親に食事の材料を買ってきてもらい、晩御飯をせっせと作るようになりしました、大体が高校生の男が作るもの最初は油っぽいトンカツやカレーライスなであるがそのうちに刺身や寿司等といった料理からほどなく中華料理までなんでもこなせるようになってしまった。
そして当時の我々高校生の進路決定に一つになった(前略おふくろ様)が始まることとなる、
理由はよく覚えていないのだが、なぜかあの自分の親方にあたる板長の『オヤジさん』と呼んだり、
兄貴分の方を『アニさんやニイさん』いうあの徒弟制度のようなありかたや雪駄姿に憧れて生意気に包丁を研いだり、魚をさばく事に面白さを覚えてものである。
しかしながらや母親の言いつけに逆らうことができずに大学進学の道を選ぶ事となり札幌大学へ入学することとなる、しかしその母が入学直後の6月に死亡してしまい、なんとなく父の店を手伝いながら料理の腕を上げるようになる、。
そのころ店に成田さんという当時薄野にあった割烹菊粋という割烹料理屋の板長が買い物に来ていて色々な事を教わりましたが成田さんの『あのね、雇ってもいいけど、中卒であなたより年下の子に使われるこになるけど、耐えれるかい?』と言われ私もハッといたしました。
別に年下に使われるのはいやではないが、なにせ中途半端な性格である耐えれるはずがないと自覚しているので、そうだ自分の好きな板前の世界と慣れ親しんだ食品が繫がる道があるはずだと父の仕事で板前さんに納品できればいいんだとあっさりと道をかえてしまうが、ここで一つの難問があらわれてしまうのである、そう父の商売の失敗である、すったもんだがあり私は父の仕事とは一線を引き当時の一般食品問屋の丸吉食品へと勤める事となるが、当時給料が1,5倍になる業務用の問屋の西越へ移る事となる、まだまだ配達ですが・・・・・
やがて営業になりこの料理大好きが生きてくる事になるがそれは又後日と言うことで今日は終わりに致します。
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